Life is Not enough

無駄なことで人生の余白を埋めるのを手伝いたいブログ

就活生へ。「企業とかまじ何様」と思う前に自分が学生様になってないか考えろ

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そいつは、突然、目の前に現れた。

 

本当に突然だった。

まったく予期をしてなかった。

まさか、そんなとこにいるなんて。

 

高田馬場の駅前にあるドンキホンーテの隣のビルの3階。

エスカレーターに乗って登った目の前、まるで待ち構えていたかのように、視界に飛び込んできた。その顔に薄っすらと笑みを浮かべて。

 

焦りや恐怖の感情もありつつ、近づかずにはいられないような、でも触れてはいけないようなそんな気持ち。隣にいたそいつの仲間とはまるで違う。

人を強烈に惹きつけてるような、紫色の魅力的な抗えないようなオーラをまとっている。

 

僕はそいつの前で立ち止まり、思わず苦笑いをしてしまった。

そして、次の瞬間にはそいつを手に取っていた。

 

まったく、本当に『何様』だよ。

 

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24年間生きてきて辛かった思い出ベスト3を上げろ、と言われたら即答できる自信がある。

中学受験、大学受験、そして就職活動だ。

 

中学受験の時は小学校3年生の冬から塾に通わされた。

遊びのことしか頭にないようなガキにそんなことを強いる親は何様なんだと思った記憶がある。

学年が上がるにつれて塾に通う頻度も上がり、友達と遊ぶ時間も減っていき、本当に苦痛だった。

特に、夏期講習は地獄の極み。

 

朝から塾に行きよく分からない問題と向き合う。

机と黒板だけならぶ、小学生にとっては監獄のような場所で。

その頃から既に理系科目が嫌いかつ、苦手だった僕にとって、つるかめ算も塩の濃度も、球が転がる速度も本当にどうでもよかったし、一生のうちで塩の濃度を機にする瞬間なんて一生訪れないだろバーカ、と思っていた。僕の勉強嫌いは確実に中学受験で生成された。間違いない。

 

親としては、地元の中学校が荒れていたので私立の高校に通わせたいという意向だったらしい。

加えて、その中学は中高一貫校だったのがその高校でおじいちゃんがかつて先生をしていたことも理由の一つだった。

 

志望校も親が決めた中学だけ受けて、先生からもっと高いとこも目指せると言われてもどうでもよかった。

 

幸か不幸か、その中学はそこまで偏差値がバカ高いわけではなかったので、僕は無事にその中学に入学することができて、結局たくさんのいい思い出や友達ができてよかったのだが。何様と思ってしまった親に謝りたい。

 

大学受験も、似たような理由で嫌いだった。

まず、勉強が嫌い。加えて中でも英語が嫌い。

絶対将来英語なんかつかわねーだろ、なんで日本にいるのに外国語覚えないといけないんだと思いつつも、人生の最後の夏休みを手に入れるためだけに奮闘した。

 

学校のテストだけ頑張るタイプだった僕は持続的に能力が継続していたわけではなく、現役の時はあえなく失敗。記憶力だけに頼りまくった僕の勉強法は甚だ効率が悪かっただろう。

それでも、自己承認欲求というくだらないプライドだけで、勉強の意欲をトルコアイスのようにぐにょーんと伸ばして、二度とやるまいと決めていた大学受験の勉強を2年間もやったことだけは褒めてあげたい。

 

中学受験もそうだけど、勉強に関しては人のせいにはできない。

 

いくら問題が難しかったりひねくれていたりして、問題作ったやつ何考えてんだよ! と思ったとしても、勉強をしたらその分だけ成果として、解ける問題が増える確率は上がる。それに合否の判断は人柄や話の上手さ、自分のアピールの上手さでは決まらない。推薦入試や内部進学など面接があるような受験の場合は関わるかもしれないけど、基本的に学力だけが判断基準として用いられる。品行方正でも、チャラチャラしていても、オタクでも、ギャルでも、スポーツマンでも、文学少女でも、バンドマンでも、学校が満たした基準の学力が示せれば良い。ただそれだけ。その大学を志望した理由もいらないし、僕らが試験問題を作った人直接会うことはまずない。大学に受かったことが決まった後一緒に生活をするの時間のほぼ全ては同年代の人たちだし、先生や教授と仲良くなるとしても、ゼミや研究室の担当の人に限られるのが普通だろう。

 

大学受験は単純にずーっと勉強をしなければいけない期間が長かっただけで、勉強が嫌いな僕にとってその環境が辛かっただけのこと。自分のやりたいことを我慢するのが嫌だっただけ。中学受験も同じ。この2つが人生のうちで辛かった理由と、就職活動が人生のうちで最も辛かった理由には天と地ほどの差がある。

 

だって、就職活動は、まさに『何様』の連続だったから。

 

自己PR、志望動機、学生時代頑張ったこと、リーダーシップをとった経験、周りの人を巻き込んだ経験、尊敬している人、5年後・10年後はどう言ったキャリアプランを描いているか、この業界以外にはどう言ったところを受けているのか、内定はすでにあるのか、この会社でやりたいことはetc。

 

うるさい。

本当にうるさい。

 

いや、質問としては必要なのはわかった上で言いたい。自分が本当に志望した会社以外の志望動機なんて所詮捏造に過ぎないし、社会人になったこともなければ、その会社で働いたこともないのにやりたいことなんてわかるわけないし、キャリアプランなんて変わる可能性大だ。

 

逆に聞きますけど、面接しているあなたはこの会社が第一志望だったんですか?

自分が本当にやりたいと思ってこの会社に入ってるんですか?

入った当時に綺麗ごと言っただけじゃないんですか?

学生時代僕達より、なんか頑張っていたんですか?

 

そもそも、何か月もかけて作り上げた自己PRや志望動機が30分足らずで判断される時点でおかしい。30分もあればいいほうかもしれない。大企業や有名企業なんかは受ける人数が多いから15分、20分なんてこともザラだろう。それにそう言った企業に入りたい学生はみんな本気で自分の考えをまとめてくる。それなのにたった15分で判断するって、本当に何様なんですか? その時間で僕達の事理解しているんですか? そんなわけないですよね? 何段階評価かはわからないけれど、テストや論文などと違って、人間性を数字で評価するなんてどうかしてる。

 

就職活動中に本当に腹立たしかった面接のことを今でも覚えている。

 

ある会社の3次面接。面接官3人に対し僕1人。

明らかに興味のなさそうな感じで面接をしている。しかも、そのうちの一人が面接中に腕を組んで下を向いている。寝ているのかと見間違うくらいに。あまりにも不誠実だと思った。そっちにとっては何人もいる学生の一人で、所詮は日頃の30分と同じ瞬間かもしれない。けど、こっちは人生かかってんだ。内心めんどくさくてもやる気出せよ。上っ面だけでも繕えよ。

 

さらに、学生時代面接に関して驚いたことがある。

長期インターンシップとして、とある企業で働いていた時のことだ。

休憩室のようなところで、先輩と話していると、ソファで寝ている社員の方がむくりと起き上がった。

 

「あれ、Kさんこの後面接じゃないっすか?」

僕の先輩が尋ねる。

「あー、そうなんだよねぇ。マジめんどくさいわ(笑)」

 

その言葉を聞いた時背筋がゾッとした。

 

え、面倒臭いって、マジすか。だって、学生は今日のために頑張ってきたんですよ?

いや、確かにその人は人事部ではないし、他の仕事が忙しいのかもしれない中、面接の仕事を任されてそう思ってしまうのかもしれないけれど、もう少し誠実になるべきなんじゃないですか?そんなこと思って面接していいのかと、自分なら全部の面接に本気で取り組むと。学生に対して真摯に誠実に臨むと。口には出さなかったけどそう思ったのを覚えている。

 

『何様』の中でも、面接後の社員が喫煙所で面接した3人の学生について話すシーンがある。

さっきの学生達はどうだったかと、1人の社員が聞くと、別の社員が3人の学生全てに対してダメ出しをして、最終的には私なら全員落とすと言い切る。1人目はすぐ辞めそうだし、2人目は上っ面と勢いだけで押し切って中身がない感じ、3人目も自分がやりたいことができないと遅かれ早かれ結局辞めそう。そんな会話が交わされる。

 

就職活動がうまくいかなかった僕にとって、『何様』の前作的な位置付けともいうべき『何者』には当事者的立場から思わず恐怖したが、『何様』ではその企業の中の人の考え方にゾッとした。

1年前までは学生だった人間が、会社という箱に入った途端”企業様”という衣をかぶり、突然1段高い場所に登ったかのように振る舞う。選ばれる立場だった人間が、突然選ぶ立場に回る。欧州に比べて、未だに新卒採用が絶対的価値観を持つ日本では、新卒採用での失敗は、今まで登ってきた崖からいきなり突き落とされるようなもの。新卒採用での失敗による学生の自殺率の高さも異常だ。

 

全ては不誠実な面接のせいだ。『何様』な企業様のせいだ。

 

そう思って、企業にずっと悪態をついて生きてきた。

勉強と違って、就職活動は責任の転嫁ができる。

社会のせいに、企業のせいにできる。

就職活動はクソだと思い、留学中は日本の就活ってマジで終わってると友達に言い、結局はしゃべりのうまいやつが勝つ世界、すごいことをやってきたやつが勝つ世界、成果を出してきたやつが勝つ世界。いくら人間性が良くても、優しくても、いい奴でも、社会では、面接の世界では評価されない。トリリンガルでも、一流大学出身でも、自分のアピールを失敗しただけで二十数年間が否定される。そう思い続けてきた。

 

 

だが、『何様』を読み終えた時、僕は気づいてしまった。

重大な視点が抜けていたことに。

 

 

果たして、僕は”誠実な学生”だったのだろうか、と。

 

 

全ての企業に対して全力でエントリーシートを書いていたのか。

面接中、ネット上の有名企業ランキングや、年収、出身大学の割合、実績の凄さでその会社を値踏みしてなかったのか。一緒に面接を受けている学生のことを見下していなかったのか。

 

「自分はこんなすごいことをやった。隣の学生よりは自分はすごい」

「この企業はそんなに有名じゃないし、第一志望の練習」

「俺はこんなしょうもない企業でくすぶるような人材じゃない」

「この企業はすごい人が多いから、気に入られるようにしないと」

「どうせこの企業は受かっても行かないから、受けなくてもいいや、適当でいいや」

 

こんな考えを持っていたのではないだろうか。

自分は”学生様”になっていたのではないだろうか。

 

 

『何様』の中で登場する企業は、面接のタームを6回にも分けて行っているような企業だ。その理由は、まだ設立してから年月が浅く、学生の採用に苦労するから。最初に採用した優秀な学生が商社や銀行のような企業に取られていく可能性が高く、タームの回数が少ないと採用人数に不備が出てしまう。

 

履歴書の額面だけは優秀なような、無駄にプライドの高い人間はきっとこのような企業を練習としてか見ないパターンが多い。企業サイドがいくら本気でも、練習台として不誠実な学生様が受けてくる。不誠実な学生に対して、面接する側は誠実に対応したいと思うのだろうか。プライドの高い学生に対して、真摯に接したいと思うのだろうか。きっと、それは難しいことだろう。

 

でも、中には不誠実さの中に誠実さを見出そうとしてくれる人もいる。

 

就職活動の初期の頃、親会社とグループ会社を勘違いして受けた時の話。

 

それが自分にとってはたまたま第1社目であり、練習としてちょうどいいやと思ってなんとなく受けていたら、最終面接まで進んでしまったことがある。ろくに企業のことを調べもせず、志望動機も適当。まぁ、どうせ入らないし、そんな気持ちで面接を受けていた。面接官の方はというと、そんな自分にも熱心に接してくれた。多分、最初の数分でこちらに入る意思がサラサラないことを見抜いていただろう。途中から自分の人生相談みたいな感じになってしまったけれど、最後の最後までちゃんと僕に向き合って対応してくれた。こちらが不誠実にもかかわらず、そういった真摯な対応をしてくれる人も沢山いる。

 

全ての学生に毎回100%真摯に、誠実に対応するのは難しいかもしれない。僕らも、全てのエントリーシートを面接を100%本気でこなすのは難しいかもしれない。面接に落ち続けると、どこか人間性を否定された気になってしまう。また、人生の順序として学生の後に社会人が待っているわけだから、どうしても学生視点の気持ちを持ちがちになってしまうのも仕方ない。みんな沢山の仕方ないを抱えている。

 

そんな中、学生も企業も関係なく唯一できることは、人や企業の本質的な価値に上も下もないと理解することなんじゃないだろうか。売り上げとか、ネームバリューとか、見えるところだけで判断しないように気をつけることなんじゃないか。企業だって人の集まりだ。

 

僕が企業に対して不満を抱いていたり、就活を失敗したと思い込んでいたのは、目に見えること、考えなくても分かることだけに執着していたからだ。自分と企業を勝手にランク付けして、それで一喜一憂していた。

 

『何様』の表紙に書かれた顔のように、内心でいろんな人を馬鹿にしてはいなかっただろうか。誰かの必死さを嘲笑ってはいなかっただろうか。

 

この本に出会って、自分のフィルターだけを通して物事を決めつけていたことにハッとさせられた。仕方ないばかりがある就職活動の中で、僕らができることは、きっとお互いの中の少しの真摯さに目を向け、前向きに受け止めていくことだけかもしれない。

 

それでも、みんながそういう前向きな思考になったら、今よりちょっといい世界ができる。

 

そんな気にさせてくれた『何様』はひょっとしたら『神様』だったのかもしれない。

 

<終わり>